CURE キュアの解説2(1997年 黒沢清)

最終更新日 2023年4月16日 by Kazu

 

CURE キュア の解説からの続きです

▲ネタバレを含みます

■黒沢監督が目指したリアルな表現とは?

黒沢監督がこの作品でこだわったのは、日常の中で起きる非日常的な出来事をどのように表現するか、という点でした。例えば、スマートフォンで街の風景を撮影していたら、偶然近くで交通事故が起きて、その様子が写ってしまったとします。

その映像は間違いなく人々の関心を引きます。なぜなら、そこには現実に起きた決定的瞬間が写っているからです。このような映像は編集されておらずワンカットです。もしこれが映画であれば、さまざまな演出、編集を施して迫力のあるシーンにすることができるでしょう。

しかし一方で、演出、編集という行為によってそれが現実に起きたという確信が揺らぎ、映像の持つ説得力は弱まります。黒沢監督は映画の中の決定的なシーンを編集せずにワンカットで見せることに強いこだわりを持っていました。黒沢監督は著書の中でこう語っています。

“考えれば考えるほど、決定的なワンカットを撮るのは大変なんです。…(中略)…ある監督に才能があるかどうか、下手すると作品の冒頭一分で判断できてしまうぐらいで、この、あるカットのワンカット性というものは、物語や俳優の演技などとは違ったところで、映画の質を決定づけてしまいます。”
(黒沢清『黒沢清の映画術』新潮社、2006、p.145)

“ワンカット性の根拠を、最も単純なレベルで挙げてみれば、映画が本当にその場で起こったことを捉えるメディアだからということがあります。”
(同書 p.146)

“映画は原理的に、動く写真とは全然違うもので、空間と時間の両方を写し、かつてそこに確実にあったということを伝達するメディアなんです。”
(同書 p.146)

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■妻・文江を殺したのは誰か?

映画の終盤に、高部刑事の妻・文江が意識不明で病院内を台車で運ばれるシーンがあります。文江の首筋にはX字の切り傷がありますが、これは誰がどうしてつけたのか、映画では明らかにされません。

しかし、文江の存在から一番大きなストレスを受けていたのは、夫である高部刑事です。高部刑事は、催眠犯罪の首謀者・間宮と深く関わっていたことが映画の中で示唆されています。そのため、文江を殺害した人物が誰であれ、その動機は高部刑事に関係している可能性が高いと考えられます。

このシーンは、間宮が死んだ後も催眠による犯罪が止まらないことを観客に暗示しています。

一方、映画公開と同じ年に出版された黒沢清著・小説『キュア』(徳間書店)では、文江が殺害される場面が描かれています。文江は病院内の公園で夫にナイフで首を刺されます。この場面は精神病を患っている文江の視点で書かれており、夢見心地のような雰囲気です。文江は刺された後、自分は二度と目覚めない深い眠りに入ったと言っています。

映画も小説も黒沢監督の作品ですが、文江の運命を描く方法には大きな違いがあります。これは興味深い点だと思います。

■高部刑事はラストで何になったのか?

映画『CURE』のラストシーンは当初の脚本では、高部刑事が間宮を殺した後、海辺に現れた女子高生に「ここどこ」と尋ねるというラストでした。

しかし、黒沢監督は、間宮を自分の手で始末した高部刑事が、間宮と同じような催眠犯罪者になるのはおかしいと考えました。そこで、高部刑事を間宮よりも<グレードアップ>させることにしたのです。

その<グレードアップ>とは、間宮が記憶喪失だったのに対して、高部刑事は自分が誰なのかをしっかりと把握しながら、間宮と同じようなことをするというものでした。

ラストシーンでその様子が描かれています。

■ラストシーンの表現について

映画のラストシーンは、高部刑事が煙草に火をつけるところから始まります。店員がコーヒーを運んできて、高部刑事と言葉を交わします。店の奥に移動した店員は、ナイフを手にし、歩き出します。そのあと画面は急に街の風景に切り替わり、観客が唖然としていると、エンドロールが始まるのです。

しかしこのラスト、当初の編集段階では、店員が同僚をナイフで刺し、その身体を処理するシーンがありました。そして黒沢監督は最終的にそれをカットしたのです。

編集カット後のラストシーンは、店員がナイフを持っているところがチラッと写っているだけです。その後の展開を観客に想像させる表現になりました。

黒沢監督は著書の中でこう語っています。

“映画の頭から、ワンカットで急に人を殺すシーンが何度も出てくるんで、最後もきっと何かあるだろうと観客も注意して見てくれることを期待しました。”
(黒沢清『黒沢清の映画術』新潮社 2006年 p.187)

黒沢監督はこの編集によって、それまで描いてきた「日常が非日常に変わる瞬間」を最後はあえて省略し、観客の想像力に委ねたのです。

そしてもう一つ注目したいのが、高部刑事が店員と会話をしたあとのシーンです。タバコを吸う高部刑事の横顔から、画面奥の店員にゆっくりとカメラの焦点が合ってゆきます。高部刑事と店員の間に「客と店員」以外の関係性がすでに構築されていることが表現されたようです。(タバコの火をトリガーとして使ったとも解釈できます)間宮は相手と個人的な会話をする中で催眠をかけていましたが、高部刑事の場合は、店員に注文を頼んだだけです。

黒沢監督は必要最低限の描写で、間宮よりさらに強力で得体の知れない人間の誕生を示唆しました。

■メスマーとは?
フランツ・アントン・メスメル
フランツ・アントン・メスメル

間宮の書いた論文にでてくるメスマーをネットで調べてみると実在の人物でした。
ウィキペディアによると主に18世紀に活躍したドイツ人の医師で、フランツ・アントン・メスメル(Franz Anton Mesmer 1734-1815)。
彼は患者に鉄を調合した薬を飲ませたり、体に磁石を貼り付けたりして病状の改善を図っていました。メスメルは病状が改善したのは磁石だけが原因ではなく、人間が本来持っている「動物磁気」のせいだと考えました。
その後、「動物磁気」はメスメリズム (mesmerism) と呼ばれるようになり、ジェームズ・ブライド(1795-1860)が発明した催眠術の元になったと言われています。

■『邪教』と伯楽陶二郎について

この映画にはもう1人謎の人物が登場します。間宮の部屋にあった『邪教』という本に記載されている伯楽陶二郎です。この人物に関しては上述の小説版『キュア』に詳細が書かれています。精神科の佐久間真教授が高部刑事を自宅に呼んで伯楽陶二郎についての調査内容を話す場面があるのです。その部分を参考までに要約してみました。

 伯楽陶二郎(はくらくとうじろう)は明治時代に存在した精神医療グループ「気流の会」のリーダー。明治政府の依頼で作られた危険思想集団をリスト化した文献『邪教』に「気流の会」の名前がある。
彼らは人間の精神を“流れ”と捉えていた。催眠暗示は彼らの思想の根底をなす現象だった。
「気流の会」は明治政府の弾圧を受け解散に追い込まれた。しかし、彼らは地下にもぐり活動を続け、弾圧に対する憎悪をつのらせ邪教化し布教活動を開始。彼らは活動拠点となる療養所を富山県の奥穂高岳に建設した。しかし、ここも1897年に警察の摘発を受け全員逮捕されたが伯楽の行方はわからない。
それから1年後の1898年に富山県在住の村川スズが自分の息子の首筋を十文字に切り裂く事件が起きた。
間宮は催眠やメスマーの研究をする過程で「気流の会」の伯楽が残した教典に辿り着いたのではないか。

つまり、事件は100年前に存在したカルト集団が発端となっていたということですね。

■東京国際映画祭への出品

『CURE』は制作会社である大映社長の徳間康快が当時「東京国際映画祭」のゼネラル・プロデューサーを務めていた関係で、97年の同映画祭にコンペ部門で正式に出品されました。主演の役所広司は最優秀男優賞を獲得しました。

11月6日の『CURE』の記者会見場は満員になり、映画祭の公式記録によると監督と出演者は次のようにコメントしています。

「ネガティブな精神状態の時にネガティブな役をやることになり、撮影前は<どこ>に連れて行かれるかわからない不安があった」(萩原聖人)

「監督が見つけてきた妙な場所で、隠れていたずらをしてるみたいだった」(うじきつよし)

「もう元には引き返せない、日常とは違うレベルに達する男の物語」(黒沢清)

「ストレスの固まりだった男がストレスのない人間になる。監督の言葉を借りれば〈怪物の出来上がり〉」(役所広司)

この映画祭ではフランスの映画批評家ジャン=ミシェル・フロドンが『CURE』を鑑賞していました。その内容に驚いたフロドンは、帰国すると早速フランスのル・モンド紙で『CURE』を大きく取り上げました。この出来事は黒沢監督の海外進出のきっかけになりました。

その後、黒沢監督の他の作品(『蛇の道』『蜘蛛の瞳』『地獄の警備員』『ニンゲン合格』など)も欧州でたびたび紹介されるようになり、新たに発見された現代作家として認められるようになりました。

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[作品データ]

監督・脚本 黒沢清
製作 加藤博之
出演者 役所広司、萩原聖人、うじきつよし、中川安奈、洞口依子
音楽 ゲイリー芦屋
上映時間 111分

参考文献
黒沢清『黒沢清の映画術』新潮社、2006。
黒沢清『キュア』徳間書店、1997。
黒沢清『映画はおそろしい<新装版>』青土社、2018。